# ヴァイオレット・エヴァーガーデンに、なぜ人々は涙を流すのか
主人公の成長ストーリー。鑑賞者が最も興奮を覚え、感情が滾るジャンルのひとつである。
五体満足の主人公が酸鼻を極めるような困難に遭遇し、次々と襲い掛かる試練に乗り越えた後、ハッピーエンドを迎える物語が大抵のものであろう。
つまり、壱から十 に成長する物語。
だがヴァイオレット・エヴァーガーデンは、そうではない。
マイナスからゼロへ。そしてプラスに成長する物語である。
僕らが持っているものを持っていない
初っ端から肉体的・精神的に五体不満足な状態をもって、此の物語の嚆矢こうしとされている。
具体的には以下の通り。
両腕ともに義手 という不満足は肉体的な不満。
戦争の時、こちらは自分の意志で上司を庇ったことにより失っている。
喜怒哀楽の感情が理解できない という不満足が精神的な不満だ。
こちらは 生まれつき持ち合わせていない。
ここの線引は作中でもはっきりしており、ヴァイオレットは義手に関しては特に後悔の念などは抱いていないと思われる。
我々鑑賞者がそれを思い出す時は、彼女が腕を動かしたりタイピングをするときに軋む音を知覚した時だ。
さも当たり前のように義手を覆っている手袋を外し、訝しげに見つめる相手に淡々の経緯を説明する。
対して感情は言うまでもなく、明らかに空虚そのものである。
人らしい感情を持ち合わせていない為に、本作のキーワードである 愛している がわからない。
持っていて当たり前の、人としての 感情 を持ち合わせていないのだ。
故にマイナススタートであり、成長する姿に僕たち鑑賞者はのめり込む。
「書き手紙」という再発明
愛している を知ることが本作のメインテーマだとすれば、サブテーマは何だろうを模索すると、僕は 手紙の再発明 が妥当だと考える。
片方のどちらかが欠けても、此の物語は成り立たない。
情報通信・暗号化技術が発達した現代社会において、手紙という通信手段は廃れつつある。
日本のお家芸である年賀状も形だけは残っているものの、受け取り手を想像しながら葉書の背面をデザインするような人は極僅かだろう。
最大限相手に敬意を払い、自分の思いを言の葉に乗せることは、大変で面倒なことだ。
スマホや PC を用いて素早くタイピングができる現代に於いても、早い とは言えない。
代筆屋がタイピングを行い、言葉を引き出して完成度を早くして書くにしろ、時間は要する。
だからこそ多大なコストをかける価値を値踏みし、没入する。たかが作られた物語の他人事であっとしても美しいと感じ、陶酔してしまう。
手紙の中に生きる人格
手紙が持つ、最も強力な特徴のひとつが 言霊 であると考えられる。なにも宗教的な話を使用ってわけじゃあない。
書き手が死んでいようと、生きていようと関係ない。
様々な理由で読み手に晒すことができない書き手の人間性が、手紙に憑依する。
本編を覗いてみると、そのような場面が散見される。
手紙の中に生きる人格の存在を薄っすらと経験したことがあるからこそ、僕たちは共感し魂を突付かれる。
普段感じることのない、手紙の中の世界で生き続ける他者の一面を感じ取る。
書き手の人間味を味わうことができ、舌を唸らせる。
時代や空間を超えて、在り続けるできるのだ。
最後に
大人の階段を登るに連れて、人は素直じゃなくなってしまう。
自分や誰かの体裁や一ミリも役に立たないプライドを守るために小さな嘘を吐くようになる。
そんなご時世だからこそ、正直に本当の自分に向き直って手紙を書くと色々学びがある。
自分自身ですら知らなかった己のすがた。お世話になっている人へ伝えたい想いが零れてくるときもあるだろう。
手紙だからこそ表現できる人格の存在を大切にしたらいい。